JAZZ Column(page2)

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もちろん魂のはいっている演奏、ない演奏と普通に聴き分けられるものもあ

るだろう。ただし、批評家が自分の耳を信じているというような独り善がりの

感情だけで精神性を語っているのはあまりに滑稽ではなかろうか。一音に込め

られた魂の音なんて、10人のピアニストをならべて測定器でもつけて測れる

のであろうか。だから安易にそういう抽象表現で人を煙に巻くようなことを書

きつづけるのはやめてもらいたい。評論家と称するならハーモニーや理論につ

いて多少勉強してテクニカルなことで表現することも必要であろう。ミュージ

シャンはそのテクニックの使い方で精神性を表現しているのだから。****

また、この手の批評家が好む言い方で「歌を歌っているかどうか」とか「フ

レーズに歌心があるか云々」とよく書いているが、これも全く客観性を無視し

て使っていることが多い。つまりメロディーがしっかりしていて聞きやすい物

があるとそういうのだろうが、それがジャズという音楽表現においてどう評価

していくかどうかという基本にあってもいいものだろうか。********

なぜなら、ジャズとはもともとあるメロディックなテーマを分解し、瞬時に

再生し新たな形に組み立てていく作業であり、その工程のなかで演奏者が自己

表現するものであり、そこには聴きやすい、聴きにくいというだけで歌心があ

るなしの世界ではないはずだからである。そしてその歌とは常に時代と共に移

り変わってきたのがジャズの歴史ではないのか。*************

それをある一時期の自分の好きな歌だけに固執して、現在のジャズについて

語っている批評家とはいかがなものであろうか。自分が馴染めるか、馴染めな

いかはあくまでもリスナー的態度であり、評論家はまずそこに身を置いて語っ

ては絶対にいけない。そもそも革新的な芸術はすべて最初は一般に受け入れら

れない要素をもっており、マイルスでもピカソでも当初は批判を浴びているも

のだ。しかし、それがいつしか歌となってしっくりくるようになるのは「時代

が追いついてくる」ということにほかならない。*************

批評家とはその「時代が追いついてくる」ということの前にそれを予見し、

世の中に提示して、新たな道を示し導くということをしなければいけないはず

である。これはすべての芸術批評の基本であるが現実、理解している批評家が

ほとんどいないのは嘆かわしい事である。(まあ、ジャズ屋の親父だから難し

いことはわからんというなら、もうすこし静かにしていてもらいたいものだ)

その他「レコードを何千枚も持っている」とか「普通の人の何十倍もレコー

ドもライブも聴いている」のようなことも批評ということとは全く無縁なこと

なのでここでは短く説明するが、これもただ知識のひけらかしに過ぎず、ジャ

ズ歴史家とでも名前をかえてもらいたい人たちであり、あれを聴かなきゃジャ

ズはわからないなどと言っている本人が果たしてなにをわかっているのか。

それはあくまでもマニアであるだけで、マニアはマニアとしての楽しみがあ

るはずだからそれを世の中の常識として語らないでいただきたい。人より多く

知っていると批評家になれるというものではないのははっきりしているので、

ここではもういいだろう。***********************

すなわち批評、評論とはまったくかけ離れた次元で語られているのが現在の

日本のジャズ界の姿である。これはリスナーを育てるということにはならず、

しかもプレーヤー達にも多大な悪影響を及ぼしていると言わざるを得ない。な

ぜならリスナーが成熟して初めて新たなジャズが認められてくるわけで、前述

した批評家、評論家と称する人たちがリスナーを引き上げるべく新たなジャズ

の姿を見つけ出そうとしているとはとても思えないからだ。そのためプレーヤ

ーはオリジナルを作っても客が入らないという理由で、スタンダードばかりラ

イブハウスでやらされるというはめになっている。こういう現状に対する責任

を批評家は取る必要はないのであろうか。いや責任をとるというレベルではな

く実は批評家達がジャズの世界を発展性のない不毛な場所に追いやろうとして

いるのだ。******************************

現に彼らはマイルスでジャズは終わったとか誰々が死んでジャズは死んだと

いう話をよくしているようだが、ジャズを殺そうとしているのは彼らではない

か。耳に馴染んだあるスタイルだけを追い求めそれを逸脱していくものを非難

し、それどころか聴こうともしない。そして新しさも発展性も感じられない焼

き直しのものを大絶賛する。それではリスナーもプレーヤーも育つわけはなく

、いずれジャズそのものが古典化してしまい年寄りしか聴かない音楽となって

しまう危険性を作り出しているのだ。つまり自分で自分の首をしめていること

をしている訳であり、彼らが批評、評論といっていることはまさに愚かしい行

為なのである。****************************

ではこの現状を打破するにはどうしたらいいのであろうか。*******

それはまず本来の批評、評論の意味を再度考え直すところから始めなければ

いけない。先ほども説明したが批評、評論とは次にくるものを予見しそれを見

つけ出し、プレーヤー、リスナーを引き上げていくことが本来の使命なはずで

ある。それは今、現在という時代をどう表現しているのかということと繋がっ

てくる。ジャズの歴史を考えてみて欲しい。まさにその時代、時代の空気、状

況、精神をうつす鏡ではなかったのではないのか。天才が次の世界を造ってき

たともいえるが、芸術とは時代の要請で天才を生み出してきたともいえるのだ

。時代の要請、それを予見すること、批評、評論とは時代を敏感に感じ取りそ

れをいかに表現するべくプレーヤーを導き、リスナーに理解させていくか、そ

こにすべてがあると断言したい。********************

最後に、ジャズは死んではいない。今のジャズは明らかに存在する。しかし

それを心無いある批評家、評論家が自分達が守っている古き夢に固執するあま

り、ジャズを死んだことにして今のジャズを殺そうとしている。その現状をち

ゃんと認識して、今を取り戻していく、それがこれからのやらなければいけな

いことなのである。**************************

2003年2月27日**伊藤 哲********************

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